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吉祥寺


  

  • 浄心寺坂は、さして大きな坂ではないが、少しの間がやや急である。
    この坂は、白山の上、下の抜け道になるのかけっこう車も通り、なんの帰りか若い女性がひとりかたまりになって坂を下っていく。どこの坂にも、坂には人の心をそそる何かがあるが、この坂は下りきったところに、天和(1681年?)の昔、恋ゆえに放火して捕われ、わずか十六歳の娘の身で火あぶりになった八百屋お七の墓があるので知られている。
    坂下右手には、天明年間(1781-89)に建てられた、播磨国清水寺と八百屋お七墓所の両碑、赤塗りの小さな”お七延命地蔵尊” とがあり、この間の狭い小道がお七の寺、円東寺への”参道”である。参道の両側には印刷所、製本屋、民家等が肩を寄せ合うように並び、六十メートルほど奥のドンヅマリに、民家にさえぎられながら小さな円乗寺が半分ほど顔をのぞかせている。お七の基は、寺の手前、参道わきに白、薄赤の花に埋もれひっそりと立つ。
    お七の基は、星霜を経て風雨にすり減ったり、けずり取られたりして、丸く小さな形になり、わずかにハスの台座石が見られるのみ。向かって右隣に初代岩井半四郎が寛政五年(1973)奉納した113回忌、左隣に昭和25年に建てられた270回忌の両供養塔が立っている。
    参道は明るい日差しも入ってくるのだが、奥のお七の墓の周辺は樹木におおわれて薄暗く、悲刷の主が眠る基らしいシメった空気がながれている。
    このあたり昭和49年施行の新住居表示以後、文京区白山一丁目と呼ばれるようになったが、以前は”指ヶ谷” という町名で、浄心寺坂も、坂下のお七の墓所にちなんで、一名”お七坂”とも呼ばれている。
    さて、八百屋お七の伝説は小説”浄瑠璃”芝居等あらゆる方面の題材になって諸説があるが、お七との因縁を伝えられる吉祥寺の「寺史」ではお七事件について、『天和関委集』を、もっとも真実に近いものとして取り上げている。それによると?。
    本郷森川市に、八百屋市左衛門という富裕な商人があった。もとは駿河国富士郡の農民だが、ツテを求めて江戸に下り商人となったが、なすことすべてが当たり、だんだん豊かになったので、森川宿に移り、乾物青物の店を張り妻を迎えた。夫婦の間には二男一女ができたが、この一女こそ「お七」である。
    お七は末っ子のため、両親は蝶よ花よと可愛がり、特に子守りのゆきをつけて大事に育てた。
    お七は幼少より利発でキリョウも人一倍美しく、両親はその成長を楽しみにしていた。ところが天和二年(1682)12月28日、駒込大円寺から出火した大火でお七の家は類焼し、一家は正仙院という寺に一時立ち退いた。この正仙院に住持寵愛の美少年生田正之介がいた。この正之介がお七をひと目見るなり、たちまちポッポーとノボセてしまった。
    正之介はなんとかお七の心をつかみたいと、ゆきを介してラブレターを送った。はじめはさして気にもとめなかったお七も、度重なるラブレター攻勢にいつしかグラリとカタムいて、ワリない仲になった。寺での毎日はユメのように楽しかった。
    だが明くる正月中旬、焼け跡に普請中の家もでき上がり一家は新居に戻ることになった。新しい家に帰ったお七は落ち着かなかった。カッカと熱して燃えたぎる娘心には、「正之介さまにお会いしたい、したい・・・」の一念以外なにものもなかったのである。
    かくて、もう一度家がやければまた寺に戻れると妄想を抱くに至ったお七は、天和3年2日夜、風が少々おこったのに乗じて家地に近い商人の家の板の間に火を付ける。
    これを近所の者に見つかり捕らえられた。奉行所はお七の白状いかんによっては命をたすけるとさとしたが、正之介との間を隠し通したので、とうとう火刑が決定した。
    一方、正之介はゆきからのお七の心を知らされ、あまりの悲しさに奉行所に訴え出てお七と共に罰せられようとしたが止められた。
    お七の両親、親類らは助命嘆願もした。だが空しく、お七は江戸市中引き廻しの末、3月28日鈴ヶ森刑場にて火刑に処せられた。お七の一家は、お七の処刑後世間体を恥じて甲州の山里に退隠して再び農民になった。正之介は自害せんとしたが果たさず、高野山に上り、僧となってお七の冥福を祈った。
    お七と吉祥寺は直接関係はないが”お芝居”の舞台には本郷きっての大寺、吉祥寺がうってつけだったのであろう。吉祥寺には今、チャチだがお七吉三の比翼塚が立っている。
    曹洞宗(禅宗)諏訪山吉祥寺は、長禄年間(1457-60)太田道灌が江戸城を築いた時、井戸の中から「吉」の文字を刻した金印が出てきた。これを瑞祥として一庵を設けたのがはじまり。東京でも有数の 古寺である。
    天正18年(1590)、徳川家康が江戸に人り、江戸城の拡大整備のため神田台(峻河台)に移された。今の水道橋は当時の吉祥寺の前門の橋で、吉祥寺橋と呼ばれていた。現在の駒込に移ったのは、振袖火事いわれた”明暦の大火”(1657)で類焼したためで、このとき門前町も寺と別れて移転した。それが現在の中央線沿線の吉祥寺町である。
    また昔よりここに”栴檀林”という禅宗の大きな学寮があって、三百余年の間に六万有余の学僧が勉学し、多くの高僧も輩出した。これが発展して後に「駒沢大学」になった。
    吉祥寺は今も境内、墓地合わせて約三万坪、宗門の中でも「別絡」の寺である。

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